詩人バイロンについて

<ロンドンに生まれ大陸旅行に至るまで(1788-1811)>
 バイロンがこの世に生を受けたのは1788年1月22日のこと、出生地はロンドンのホレス・ストリート16番地であった。父は「マッド・ジャック」の異名を持つジョン・バイロン大尉、母は彼の2番目の妻キャサリン(旧姓ゴードン)であった。このジョン・バイロンはかつてレディ・カマーザンという女性と駆け落ちし、結婚してオーガスタという娘をもうけていた。後々、バイロンとこのオーガスタ(彼の異母姉)はのっぴきならない関係に陥ることになる。バイロンは先天的に(おそらくは右足に)内翻足を患っていた。この身体的障害が彼の性格形成に重大な影響を与えたことは想像に難くない。

 債権者たちに追い回され、バイロン家は1789年にスコットランドのアバディーンに移住する。1791年には父が、1794年には第5代バイロン男爵の息子が、1798年には男爵自身が亡くなり、バイロンは突然に爵位を継ぐことになる。10歳のバイロンは母に連れられて荒廃したニューステッド・アビーを訪れ、やがてハロー校に入れられる。1802年にはニューステッド・アビーで、初めて異母姉オーガスタに出会っている。ケンブリッジ大学に進学したのは1805年のこと、ただし勉学に精を出しつつもロンドンにたびたび出かけ、乱痴気騒ぎに耽るのだった。1807年には処女作『懶惰の日々』を出版するも、『エディンバラ評論』でヘンリー・ブルームにこっぴどく批判される。しかし、これには1809年に諷刺詩『英国の詩人とスコットランドの批評家』をもってやり返すことになる。同年、バイロンは貴族院に登院を果たすが、退屈の虫に取り憑かれたのか、真面目に貴族としての経験を積むためなのか、大陸旅行(グランド・ツアー)に出かける。1809年から1811年にかけてポルトガル、スペイン、マルタ島、ギリシア、レバントを訪れる。1809年には『チャイルド・ハロルドの巡礼』(第1・2篇)を書き始め、ヘレスポント海峡を泳いで渡っている。ギリシア解放への熱情を抱き始めたのもこの頃であった。

<ロンドン社交界での名声を博した時期(1811-16)>
 英国に戻ったのは1811年のこと、たちまちオーガスタへの恋情に取り憑かれてしまう。それでも1811年と1813年には、紡織機破壊者たちとアイルランドのカトリック教徒を擁護する国会演説を行っている。ただし、大した効果を生みはしなかった。彼の大成功は政治ではなく、文学において訪れることになる。1812年3月には『チャイルド・ハロルドの巡礼』(第1・2篇)が江湖の喝采を博し、バイロンは時代の寵児としてロンドンの文壇に迎えられる。1813年には、1週間で『アバイドスの花嫁』を、10日間で『海賊』を仕上げている。『邪宗徒』もその年に現れている。それと同時に、彼はキャロライン・ラムと恋に落ち、オーガスタとも親密さを増していく。1814年にはオーガスタは女児メドーラを出産する。一般的にバイロンとの近親相姦の末にできた子であると思われている。同年には『ラーラ』が著されている。1815年には、レディ・メルバーンの姪、アナベラ・ミルバンクと結婚を果たしている。アナベラとは長々と交際を重ね、彼女との結婚に踏み切るのには随分と逡巡したのは有名である。同年に、二人の間にはエイダという娘が産まれている。『ヘブライ調歌曲』が出たのも同じ年である。個人的関係が発展するのと相俟って、バイロンの借金はどんどん膨らんでいく。派手な生活もそうだが、賭博癖が彼の経済的破綻の大きな原因だった。彼をめぐる良からぬ噂も収まる気配がなかった。オーガスタとの近親相姦もそうだが、男色の疑いも彼にかけられていた。彼がアナベラと別居(離婚ではない)することになった原因の一つは、淫蕩に耽るあまり梅毒にかかり、性生活を続けると妻に性病を移しかねないという嫌疑であった。

<ヨーロッパ大陸への放浪の旅(1816-19)>
 ロンドン社交界から追放され、バイロンは1816年に英国を離れ、二度と戻ることはなかった。大陸に渡ってからはライン川を遡りつつ、ジュネーブに至る。すると、彼の地では既にシェリー夫妻とクレア・クレアモントが滞在していた。バイロンはここで『シヨンの囚人』を著し、クレアを愛人とする。彼の筆はさらに勢いを増す。『マンフレッド』の2幕、『チャイルド・ハロルドの巡礼』(第3篇)などが次々に生み出されていく。4ヶ月後、バイロンはイタリアを目指すことになる。1817年1月には、イギリスに還ったクレアは彼の娘アレグラを産み落としている。同じ年、バイロンはヴェニスで破天荒な生活を送りながらも、『マンフレッド』(第3幕)を物している。

 彼の気儘な脚はローマへと向かう。タッソーの庵が与える霊感は『タッソーの嘆き』の執筆へと結びつく。ローマでは『チャイルド・ハロルドの巡礼』(第4篇)が生み出される。彼の筆力は留まるところを知らない。ヴェニスに戻ったかと思えば、今までの暗鬱な詩群とはがらりと違った、明るく世俗的な『ベッポ』の世界が展開される。陽気で、諷刺的で、世の愚行を突き放して見たような大作『ドン・ジュアン』に着手するのもこの頃である。ニューステッド・アビーが売却され、イギリスとの縁はどんどんと遠のいていく。1818年には勇壮だがもの悲しい雰囲気を湛えた物語詩『マゼッパ』が書かれる。バイロンの書肆ジョン・マリは1819年に、あまり気乗りがしなかったが『ドン・ジュアン』の最初の2つの詩篇を出版している。これは匿名出版だった。たちまち『ブラックウッズ・マガジン』が食いつき、「汚らしく不敬な詩」であるとこき下ろした。しかしゲーテは打って変わって誉め称えてくれ、バイロンは大いに勇気づけられた。

<テレーザ・グイッチョリとの出会いとイタリア解放運動(1819-21)>
 1819年といえば、テレーザ・グイッチョリと出会った年でもあった。バイロンは老齢のグイッチョリ伯爵に嫁がされた、この19歳の乙女とたちまち恋に落ち、彼女の愛人になってしまう。バイロンは愛ゆえに彼女を追いかけ回し、ラヴェンナまで向かうことになる。彼の地では『ダンテの予言』が書き綴られた。1820年には『ドン・ジュアン』の第3、第4篇の執筆を続け、かつ『マリーノ・ファリエロ』を仕上げている。イタリア解放運動にかかずらうようになるのもこの頃である。テレーザは翌年には老グイッチョリ伯の元を離れ、バイロンと暮らすようになる。彼女はピサに邸宅を構え、バイロンと彼女の実家ガンバ家の者たちがそこの住人となった。ラヴェンナとピサでバイロンは劇作にのめり込んでいく。彼の筆が生み出したのは『フォスカリ父子』、『サーダナパラス』、『カイン』といった珠玉の名作たちであった。『審判の夢』が書かれるのもこの頃である。1822年は娘のアレグラが亡くなっている。修道院に押し込めてしまったこの娘の元をバイロンはついぞ訪れたことがなく、いかに彼の悲嘆が激しかろうと彼がこの娘を本当に愛していたかどうかは怪しいところである。彼の心を占めていたのは縁遠い愛人の娘ではなく、やはり恋愛と戦争であったろう。バイロンはますますテレーザを愛し、かつイタリア独立闘争への関わりはのっぴきならないものになる。ラヴェンナのバイロンの屋敷はさながら兵器庫の観を呈していたが、彼の不穏な動きを察知した当局は1821年に彼とガンバ家の活動を弾圧するに至る。

<レグホーンからギリシアへの死出の旅路(1822-24)>
 バイロンはガンバの連中を引き連れてレグホーンに移り住む。バイロンとハントが雑誌『リベラル』の刊行に携わるのはこの地であった。第4号で息絶えるこの短命な雑誌は、バイロンの『審判の夢』や『天と地』などを載せることになる。移り気なバイロンは今度はジェノヴァに滞在するが、彼の筆力は一向に衰えを見せない。劇詩『ワーナー』を物するが、『ドン・ジュアン』の執筆も続けていた。1823年にはナポレオン戦争後の事態収拾を諮ったヴェローナ会議を諷刺した『青銅の時代』が、そして英国軍艦バウンティ号の反乱を扱った『島』が書かれる。いずれもバイロンが旺盛に政治情勢に関心を持っていたことを物語っている。またぞろ闘争と変革への願望が彼の胸に胚胎されてくる。何かを変えていくことはこの詩人の常なる願望であった。そして、情勢を変えていく行為は彼の胸にたゆたう、己を常に作り替えていきたいという祈念の反映でもあった。自己を変革する力、常なる可変性(モビリティ)はなんとしても維持せねばならなかった。詩作だけではだめだ、行動せねばならないという思いは、彼をして絶好の好餌に飛びつかせた。それがギリシア遠征であった。
この心騒がしい人は、1823年7月にはギリシアに出帆する準備ができていた。乗船した軍艦ハーキュリーズ号は貨物船から改造したもので、ひどく船足が遅いという難点があった。航海途中でトルコ海軍によって拿捕される憂き目にも遭ったが、なんとか1824年1月にはミソロンギにたどり着いている。大枚をはたいて私設部隊を編成したものの、実態はバイロン自身が呆れるほどの、統率を欠いた無頼の輩たちの集団といえた。ロンドンに置かれたギリシア独立支援委員会も当時のギリシアの内部分裂の情勢を憂えてか、バイロンの行動を迅速に支えたわけではなかった。さしたる軍事行動も起こさず、彼は1824年4月に熱病のため瀉血されたのが原因で命を落とす。享年36歳であった。

 ギリシアでの追悼式は盛大を極めたが、ロンドンのウェストミンスター寺院とセント・ポール大聖堂での埋葬は拒否された。『カイン』に見られる宗教的異端性、ロンドン社交界を追われる前の素行不良、政治的急進性などが災いしたのかもしれない。中央政府や宗教界の扱いは、必ずしも心温まるものではなかった。盟友ホブハウスのとりなしで、バイロンの柩は数日間だけロンドンで追悼のための安置が認められた。その後、亡骸はニューステッド近傍のハクナル・トーカードにある一族の地下納骨所に葬られるに至る。


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